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第四十九夜 1999年4月8日
< 華麗なるフランソワ >
背筋をすっと伸ばし胸を張り、ただでさえ高い身長を更に誇張させ、さっそうとフロアーを佳麗
に歩き、物腰低くあくまで脇役に徹しながらも、その溢れんばかりの自信から導き出
されたオウラとフランスのエスプリを強くフロアーに放ち、最後のデザートを供する
頃には誰の目にも主役に映ってしまう。容姿端麗、頭脳明晰、ヘミングウェイと共に
ロストジェネレーション(失われた世代)の代表作家であるフィッツジェラルドの代
表作“佳麗なるギャツビー”を彷彿とさせる、それがマキシミリアンのソムリエ兼
ギャルソン フランソワです。
フランスで最も美しい街の一つロワールで生まれた彼は、十代前半でソムリエになる事
を心に誓い、16歳から2年制のレストラン学校に行き、そして卒業後すぐに今度は
ソムリエの資格修得の為にワインスクールに1年通い、その後、パリの2つ星レスト
ラン(名前は忘れました)でコミとして働き、その数年後に現在フランス料理界で最
も注目されているグランシェフの一人であるアランパッサール率いる3つ星レストラ
ン アルページュで働き始めました。その期間に現在のアメリカ人の奥さんとパリで
出会い、結婚を決め、2年程前にこのシアトルに移ってきました。
マキシミリアンで2年の月日を費やし、マネージメントから社員教育に至るまで様々
な面でオーナーであるアクセルをバックアップしてきました。今マキシミリアンでの
彼の存在は絶対です。
先日のイースター当日に、予想をはるかに上回る予約を承り、開店前にスタッフ全員が集まり
緊急ミーティングを開きました。かつて経験した事のない状況であった為、オーナー
であるアクセルがスタッフのポジションについて事細かに決め指導を始めました。
日本やフランスでならトップの支持に素直に従い、すぐ仕事に取り掛かかるところです
が、ここアメリカは“何でも話し合いで決めましょう”という呆れるほどのディベートの
国です。案の定、アクセルの説明を途中で止め、“自分はこうした方が良いと思う”
・・・“私はその場合はこうしないと混乱すると思う”・・・・などといった場違いな発言を発す
る“愚か者”が出てきました。
アメリカ人を良く理解しているアクセルは、仕方なくそのディベート(?)に付き合ってい
ましたが、そのミーティングで、その状況に呆れ果て、腕を組んで窓の外を眺め全く聞く耳を持たな
いでいるヤツが一人だけいました。まぎれもなくフランソワです。
しかし、しばらくそのディベートが続いた頃、その無視していた男の口がやっと開き
ました。“同じ状況は二度とない。柔軟に対応しろ。混乱?その時はそのテーブルを
俺によこせ。俺が何とかする。”・・・・そこでそのディベートは皆の無言の納得の
もと無事に終わった事は申すに及びません。
そのミーティングが行われた二階のバーから一階のダイニングルームに降りてくる
時、フランソワが私の耳元で囁きました。“もしアランパッサールがそこにいたら、
奴等は殺されてた。”フランソワの最も恐い存在であり、最も尊敬している人物です。
余談ですが、フランソワから聞いたアランパッサールに関する秘話を2つほど紹介致
します。まず、アランパッサールの料理はその調理法の完璧さで有名ですが、その秘
訣は、まず彼が完璧主義者である事が挙げられます。アランパッサールは必ずキッチン
とダイニングルームの境目に仁王立ちし、料理の最終チェックをするそうです。そし
て、ほんの少しでも彼のイメージと違うと・・・・・“なんだこれは〜”という叫び
とともにキッチンの中央にその料理を投げつけるそうです。フランソワ曰く、完璧な
料理の影にどのくらいごみ箱行きになったか分からないそうです。
また、その完璧主義は全ての面でそうであって、例えば掃除にしてもそうです。ある
日、若いキッチンの見習いが冷蔵庫の周りを掃除していると、アランパッサールが近
寄って来て“キレイになったか?”と尋ねたそうです。その青年は“はい”と答える
と、彼はその冷蔵庫を引っ張り、冷蔵庫が張り付いていた壁の微かなシミを見つけ
“これは何だ?”と怒鳴りつけたそうです。その青年は初日だったらしくアルペー
ジュでの掃除の仕方を知らなかったらしいですが、そこでは毎日“歯ブラシ”を使って
隅々まで磨き上げるそうです。
その完璧さをフランソワが受け継いでいる事は、マキシミリアンでの彼の仕事ぶりを
見ればすぐ気が付く事でしょう。アクセルにとってフランソワは最も頼りになる名参
謀である事は間違いありません。
しかし、そのアクセルにとって最も恐れている事が先日起こってしまいました。それがヘッド
ハンティングである事は想像に難しくないところです。先月もシャンパンのブーブク
リコ社からセールスマネージャーの話があった事は以前のエッセーで触れましたが、
その時は条件が合わなかった事とやはりレストランビジネスの味をしめてしまった彼
には離れる事が出来なかった為、フランソワはマキシミリアンに残りました。しか
し、その話が流れ、私もホッとしていた矢先、今度はフランソワ自身が最も望んでい
た夢の様な話が舞い込んできたのです。
シアトルのダウンタウンのとあるホテルがメインレストランをリニューアルオープンさ
せ、それまでのアメリカ料理からフランス人シェフによる完全かつ高級フレンチレストラン
にグレイドアップさせるという話は以前から業界の噂になっていました。そして、そ
こで、なんと、そのジェネラルマネージャーとしてフランソワが誘われたのです。
昨日フランソワがそのホテル関係者と話をする事になっていた事は知っていました。
そして、今日フランソワがマキシミリアンに出勤するやいなや、私は彼を更衣室に
引っ張り込んでその結果を聞きただしました。私が“マネージャーになるのか?”、と聞く
と、彼は首を横に振りました。私は、まさか断ったのかと喜びと落胆の入り交じった驚
きを抱き、また条件が合わなかったのかと勘繰りましたが、すると彼はマネージャー
ではなく“ソムリエ”だとにこやかに答えました。
もちろんソムリエよりマネージャーの方が収入は多いに決まっています。しかし、彼
の幼い頃からの夢は列記とした“ソムリエ”になる事でした。マキシミリアンでもソムリ
エの仕事はしています。しかし、実際そこでは、ソムリエでありギャルソンでありマ
ネージャーであり・・・・・研修生の子守りでもあります。
彼はソムリエを切望したそうです。ホテル側としてはマネージャーを担当して欲し
かったらしいですが、彼の情熱が勝ったようです。彼は、予定通り進めば、5月の半ばか
らそのレストランで働き始めます。私としては、今度遊びにシアトルに立ち寄った時、マ
キシミリアンで、アクセルとフランソワの佳麗な連携サービスを見れなくなるのは残念
ですが、一度はレストランから身を引くかもしれなかったので、今回のソムリエとし
ての大出世を聞けば喜びの方がはるかに大きいと言えます。ただ、アクセルの数日後
の心境を考えると・・・・複雑です。
しかし、その新しいレストランで働き始めて3年ほどでフランソワは退社しようと考
えています。それは例えマキシミリアンで働き続けたとしても同じであります。それ
は、その3年後にフランソワはアメリカ市民の資格を得る事ができ、そしてその権利
を手土産に祖国フランスに帰ろうと考えているからです。
フランソワは自分の育ったフランスを誇り高く思い又心から愛しています。その強さは
ただでさえ愛国心の強い他のフランス人と比べても比にならないくらいでしょう。ア
メリカ人との結婚を決め、経済的な事を考え、大嫌いなアメリカに移り住み、そして2
年以上の月日を費やしました。ドーテの“最後の授業”の舞台となった、かつてはドイツに
占領されたフランスのアルザス地方の様に、そのアメリカの影響を色濃く受ける一方で、その愛
国心もその分さらに強くなっているのでしょう。
っと、ここまで読み返してみると、フランソワという人物はとっても“おフランス”で
ちょっとスノビッシュでジャンギャバンのような典型的なパリジャンなのかなと思わ
れてしまいそうですが・・・全く似て異なると言えます。
では実際のフランソワと言えば、とにかくお喋りが好きで、食事の時など、疲れている
私の耳元でガンガン喋り続けます。それもほとんどアメリカ人の揚げ足を取ったよう
な皮肉ばかりで、自分で話しては一人で大笑いしています。日本人の“無の境地”と異な
り、フランス人は“万物全てを言葉で表現出来ると信じている人種”と言われますが、フラ
ンソワはそれに輪をかけて、また品を悪くして(?)当てはまっていると言えるでしょう。
特に、インターンシップの二日目にまだ私が緊張していた時、フロアーで落ち着かな
く立っている私にツカツカと近寄り、耳元で彼が囁いた事は忘れられません。アメリ
カ人のほとんどは、食事の時、ナイフを使わずフォークを利手に持ち片手で食べる事はよく知ら
れています。そこでフランソワは私にその事について話し掛けてきました。“カズ
ト、なぜアメリカ人は単純でアタマの悪い人種か分かるか?”・・・・答えようがあ
りません。・・・“見てみろ。ヤツラは
右手しか使わない。医学的な見地から言えば、つまり脳の左半分しか使っていない事に
なる。だからさ!”・・・そういって彼はお客様の見えない位置に隠れ大笑いしました。・
・・・・不思議と彼とは気が合います。
インターンシップが始まって3ヶ月。その間、彼と費やした時間は何事にも代え難い
財産であると共に忘れられない思い出になる事でしょう。仕事中はよく叱られまし
た。ワインを丁寧に注いだつもりが、彼から見れば、“死にかけた爺さんの注ぎ方”だそう
です。フランソワのように勢いよくエレガントに注ぐ事は今の私には出来ませんがい
つかそうなりたいものです。
また、彼とはよく笑いました。仕事が終わり、アクセルが
帰ったのを確認して、生卵でキャッチボールを半分本気でしたり、その日のアメリカ人
のお客様の大柄な態度を真似したり、アクセルの食事にそっとタップリのマスタード
を混ぜ込んだり、また・・・・とてもこのエッセーには書けない事を話したり(注、
話しただけです)。また、彼ほど英語の未熟な私をバックアップしてくれた人もいま
せんし、練習の場を与えてくれた人もいません。そして、暇を見つけては、デクパー
ジュなどのサービス技術やフルーツの美しい切り方など丁寧に教えてくれました。彼
には心から感謝しています。
今日は二人とも早く仕事からあがれたので、ワインバーに行き、ちょっと早いですが、そ
の様な思い出話もしました。そして、そのバーを出る間際、“3年後フランスに来い!”と
彼は突然話しました。もちろん遊びに行くと答えると、彼は“インターンシップしたく
ないのか”と付け加え、ニヤっと笑い、“まだ教える事は沢山あるし、もっとレベルの高
い本当のフレンチレストランを経験したいだろう。本物のフレンチレストランはフラ
ンスにしかないんだ。”とちょっと気に障るような事も付け加えましたが、私は非常に
嬉しく思いました。
その店を出て、小雨の降る中を歩きながらフランソワが、“アメリカに一つだけ学べる
事がある。”と言い出しました。それは、“人生いつでも勉強すべきだ”という理念です。
確かに、アメリカでは、何歳になっても大学に通ったり、夜間のコースを取ったりと
言った事は決して珍しくありません。三年後は私は29歳になります。私の両親の感
覚で言えば、そろそろ落ち着いて家庭を持って・・・といった年齢でしょう。しか
し、今現在でさえその枠を、幸か不幸か、すでに外れている様な気もします。もう乗りか
かった船です。たった3年しかありませんが、ある程度のフランス語を修得するには
充分な時間であるような気がします。その路上で、3年後のフランスでの再会を誓い
固く握手しました。
フィッツジェラルドのギャツビーの結末は作者の人生の様に悲惨でした。しかし、こ
の“華麗なるフランソワ”にはそれは当てはまりません。また、フィッツジェラルド
やヘミングウェイの“失われた世代”と比べ
たらおかしいですが、フランソワや私がレストランで費やした時間と引き換えに我々
の友達などが得られた、又は我々が得られたかもしれない小さな幸せを掴み損ねた事
は事実です。しかし、フランソワとその日熱く誓いました。俺達は失った物も大きい
が得る事もデカイ!いつか彼をライバルと呼べる日が早く来て欲しいものです。私は
この業界に携わっていて本当に良かったと感謝しています。もしそうでなければ、こ
のような素晴らしい友に出会えなかったからである事は申すに及びません。フランソ
ワと費やした時間。私が他の友人と過ごせなかった時間を差し引いて有り余る価値の
ある時間であったと思います。
フランソワはその路上
から斜め向かいにある“銀行”に眼を向けながら、一言私につぶやきました。“カズトの残高を
調べに行くか?”そして彼はニヤニヤ笑いながら“5年後ね!”と言い直し、手を振りながら帰って
行きました。やっぱり彼は皮肉好きのフランス人です。・・・頑張って働こう・・・
・・5年後は31歳か・・・。
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