第四十八夜 1999年3月31日

< いつか誰かに! >

何事も蓋を開けてみれば考えていたよりも単純に事が進んでしまうと言う事は、おそら く多くの人が体験から同意できる事であると思いますが、そうは言っても、なかなかい ざ実行に移れないのが我々日本人である事は世界各国の同一の意見であるようです。

世界各国の日本に対する意見と言えば、もう一つ何でも物が高いと言う事も挙げられ るでしょう。これはレストランやホテルでの費用も含まれると思います。他の国と比 べて商品の流通経路が著しく複雑な事を考えれば、全てにわたって割高になるのは容 易に想像できますし、批判されて久しいところです。 そして、世界一高い人件費もそれに拍車を掛けている事は周知の事実であり、また可 能な解決はされ尽くした問題と考えていましたが、ここアメリカでそれに対して更な る解決への糸口が見えたような気がします。

実際、日本で言われるその解決策はただ人を減らすか、特にレストランなどで は給料がある程度安くて済む若い人材を採用する事のようです。しかし、それでも抜本的な解 決策には至っておらず、その苦肉の策が原因でサービスの質が低下し、コストと共に 売り上げまで下がってしまったという例も少なくないと思います。

では、ここアメリカでその人件費対策をどのように乗り越えているかと言うと、要は シンプルで、給料が異常に低くて済む外国人労働者を積極的に採用している事がまず 挙げられます。また、これはアメリカだけに言えるのではなく、ヨーロッパ各国でも 当然のように実行されている事です。

人件費が下がり、商品を安く提供でき、お客様の回転も良くなり、延いては国の経済 をも刺激出来る。また、日本人と比べて低い給料でも、例えばほとんどの東南アジア の国であればその少ない給料でさえ、送金すれば莫大な財産に早変わりするわけです から、そちらも万々歳というわけです。

私がアメリカに来て見えてきた事とは上記の解決策ではありません。この様な事、当 の昔からいわれている事ですし、少数ながら実行している会社もあります。では、私 は何をここアメリカで感じたかというと、それほどそれを難しいと考える必要はない のではと言う事です。

この外国人労働者に関して、日本で即座に問題視されるのが、犯罪と日本人の失業率の増加で しょう。しかし、単一民族だからこそ世界最高の安全性ほ誇ってきた日本が、現在単一民 族であるが故に、訳の分からない犯罪が増えてきているとも言えるのではないかと思 います。また、我々若者の成熟度が他の国と比べて低い事も、単一民族であるがゆえ に、胃の中の蛙になっている事が一つの要因であると言えるのではと考えます。つま り、様々な人種と接触し又それによって生じた問題を解決しようと努力する事により 国際的な感覚を自然に身に付けていっている欧米の若者に知性で一歩譲っている原因 に、その日本人の排他性が少なからず関っているのではと言う事です。

また、失業率に関しては、例え初期段階で多少圧迫したとしても、それによって会社が元気を取り戻せ ば、いずれその何倍もの採用をするでしょうから、最終的にはその問題は解決されるような気がします。

ただ、この上記の二つの問題はよく挙げられる事ですが、実際日本の会社が懸念して いるのはそれだけではなく、単一民族であるがゆえの拒否反応が最も大きな原因では ないかと思います。そして、私が蓋を開ければそれほど難しい事ではないと感じているのも即ち この部分です。また、我々日本人に蔓延っている人種差別的思考を根本から排除で きる唯一の方法でもあるような気がします。

マキシミリアンには、以前も紹介しましたが、二人の外国人の皿洗いがいます。ギニア 人とメキシコ人です。では、その二人と他の従業員の間にどのようなコミュニケー ションが存在するかというと・・・・その二手に分けるという概念すらありません。 つまり、その二人の外国人労働者と他の従業員という区別すらないということです。つまり、皆同じレベルでコミュニケーショ ンが取られているということです。(よく考えてみれば、オーナーも外国人です。) (しかし、ここでしっかり触れなければいけない事は、それでは給料に関して差別で はないかという疑問に対する答えです。問題ありません。ただ単に彼らにウェイター をする能力がないと言う事で片づけられます。)

特に、そのメキシコ人のジーザス(ニックネームです。神と呼ばれています)はマキ シミリアンでは皆を和やかにする為にはなくてはならない存在であり、彼がいる事に より職場そのものが明るくなるような気すらします。とにかく人を笑わせる事を生き がいにしているらしく、皆皿洗い場に汚れた皿を持って行く度に何かを期待させら れ、そして彼は様々な手法でその期待に必ず答えてくれます。また、気まぐれにたま に彼が作る本格的なメキシコ料理のまかないは皆の楽しみの一つでもあります。ただ、面倒くさ がってなかなか作ってくれませんが・・・・。とにかく人気者です。

また、ギニア人のママドゥは50歳ほどの紳士で、祖国では、ある種族のリーダー的存 在であり、わけあってアメリカに渡ってきたのですが、ここマキシミリアンでは若い スタッフが世界の広さを学んだり出来る特殊な存在であります。とにかく物知 りです。あるアメリカ人のスタッフなど、彼のいる皿洗い場に行ったまま20 分もホールに戻って来ず、探しに行ってみるとママドゥの話を腕を組んで深々とうな ずきながら聞いていました。これは仕事としては決して良い例ではありませんが、そ のようにただアメリカのような先進国に住んでいるだけでは学べない事も身近に学ぶ 事が出来ると言うわけです。

話を日本に戻します。私は多くの日本の会社の経営者が懸念している事は、現在の日 本の状況を考えれば致し方ないとは思いますが、ただ私が思っている事は、誰でも良いから人件費の安い 外国人を雇えば良いと言う事ではありません。当然会社ですから選ぶ権利はありますし、すべきであると思います。

どうしても、日本では特に東南アジア人に対するイメージを一つ括りにしがちです が、当然ですが、どの国にも様々な人がいると言う事は忘れてならない事実であると 思います。また、その当然の事実を分かっていない日本人にその誤解を取り除く為に も、いろいろな国の人々と共に働くという事は絶好の国際交流の場であると感じます。

しっかり面接し話をすれば、それほど大変な問題は起こらない様な気がします。どこか らそういう発想が出てくるのか分かりませんが、“外国人労働者イコール盗難”と危惧の 念を抱く方がいますが、それは決して出身の国で決められる問題ではありません。会 社とその外国人労働者との信頼関係に寄与する部分が多いのではと感じます。と言っ てもそれほど大袈裟な事ではなく、フランス人のシェフのエリックがメキシコ人の ジーザスからメキシコ料理を楽しそうに教わったりといったその程度のお互いを尊重 する気持ちの余裕が持てれば良いと言う事であると思います。

何の根拠もなく、欧米に行けば小さく身構え、東南アジアでは大威張りするという馬鹿げた気狂い的な伝統 を我々の世代までもが継承しようとしています。しかし、いくら頭の中でそれを善意 で拭い去ろうとしても、人間はそれほど賢い生き物ではありません。すなわち、もっと様々 な国の人々と身近に接する機会が必要であると考えます。“様々な国で様々な 人がいる。”この様な当たり前の事実を早く日本人全てがそのまま事実として何の抵抗 もなく受け入れられなければ、益々我々日本人は世界から孤立していってしまうと危惧の念を 抱きます。更に、日本では世界各国の生の情報があまりにも少ない為、唯一入ってくるアメリカ的思考に 異常に影響され、又更に悪い事には、その世界の中の単なる一つの国の単なるアメリカだけの考えを、 比較対照がない為、世界の(インターナショナルな)考えだと錯覚してしまう事です。

アメリカに来て一年以上が経ちました。“日本では外国人を見ればアメリカ人だとす ぐ思い込む。”去年まではただの笑い話でした。“外国人イコールアメリカ人。”す なわち“世界イコールアメリカ。”一年経った今、非常に危険な思考に思えます。

アメリカ人は誰でも日本に来れば、東南アジアの方々と比べて簡単に職に有り付ける と聞いた事があります。しかし、アメリカ人も、当然ですが、様々です。そして、ど の国でも同じ事が言えます。もちろん日本でも同じ事が言えるでしょう。

私の中学時代の数学の先生が、我々が大人になる頃(つまり現在)には国際結婚が一 般化するであろうと授業中語ってくれた事を思い出します。つまり、その頃から日本 の外国人の受け入れが騒がれていたと言う事です。しかしながら、十数年経った現在 でさえそれに関して何の変化も見られません。世界中からのプレッシャーより日本人 の拒絶反応が、そして世界の流れよりも日本に根付いた排他性がより強いと言えるの かもしれません。

アメリカで出会った日本人の友人が続々日本に帰国しています。皆それぞれこの一年 で何かを感じて帰国している事と思います。しかし、たった一年で一つの国を理解す る事は誰にも不可能である事は事実です。ただ、それによって生まれ育った祖国が浮 き彫りにされ新たな一面を垣間見る事は可能です。

私がここアメリカで感じた事が正しいとは自信を持って言いきれませんし、誰かにそ れを押し付けようなどとも決して思いません。それに、今の私には何もそれらを裏付 ける手立てがありません。しかし、アメリカが教えてくれた感覚を私自身から離れる 事も決してないでしょう。私は私自身を信じます。そして、その感覚と共に生き、い つかそれを裏付ける事が可能な、目に見える結果を出した時、私の戯言に耳を傾けて くれる人が出て来てくれると願います。

“与えられた環境を制覇しないで、それを否定する資格はない。”これはバーで働い ていく中で、先輩方そして後輩達に間接的に学んだ事です。仕事にだけでなく全てに 当てはまるような気がします。

帰国後すぐにアメリカで学んだ事を、決して忘れないまでも、実行に移すつもりはあ りません。それは私が日本で学べる事を全て学びつくした訳ではないからです。そう 言ったら一生かかっても全てを学ぶ事は不可能でしょうが、ある時期がくれば、ここ アメリカでインプットされた事が自然にアウトプットされて行くような気がします。 しかし、それがいつになるか見当もつきませんし、また自分自身で気が付くわけでは ないような気がします。きっと、ふとした時、今は知らない誰かに気付かされるので はと思います。多分そういうものでしょう!・・・大器晩成・・・んっ、待機蛮声?

 

第四十七夜 1999年3月23日

< 赤いバススケジュール表 >

いつもの様に何の抵抗もなくいつものバスにいつもの様に乗り、不意に運転手席の 後ろを見た時、何とも言えない胸から込み上げてくるものがあり、バスが動き出し 体がそれに揺らされ驚くまで、運転手席の後ろでボーッとしてしまいました。

シアトルのバススケジュールは年に4回改正され、その度にそのスケジュール表の“色” が変わります。私がアメリカに着き、恐る恐る初めてアメリカのバスに乗って手にし たバススケジュール表は“赤”でした。そして、改正とは言え、ほとんど内容が変わ らない為必要ではないにもかかわらず、先日私が思わず手に取り、一瞬物思いにふけさせたスケ ジュール表もちょうど一年前と全く同じ“真っ赤なバススケジュール表”でした。

アメリカに到着し、ホストファミリーと顔合わせをした後、心の中で、アメリカらしく暖炉の脇 でゴールデンレトリバーが大人しく横たわっている家庭を想像しながら、実はゴミだ らけの地下室に監禁され吠えまくっている雑種が待ち構えるこの家に向かいました。

次の日、気を取り直しさっそくバスに乗り、訳の分からない料金システムに首を傾げ ながらダウンタウンへと向かいました。そこで見たものは、立ち並ぶビルや沢山の車 が行き交う交差点など日本で見る光景とほとんど同じであるにもかかわらず、一回りガタイが 大きく、髪も肌の色も違う人種の肩越しに見たその映像は、全く異質の物に感じ、改めて 外国に来た事、そして、待ちに待った留学が始まった事を実感したものです。

目的もなく、ただ押さえがきかず膨れ上がる好奇心を羅針盤に、ダウンタウンを隅々ま で歩きました。そして、気がつけば夕方になっており、そろそろ帰ろうとバス停を探 しにかかると、生まれつきの方向音痴がアメリカでも大活躍し、期待通り途方に暮れてしまいました。

辺りはだんだん薄暗くなり、その少なくなる光の量と反比例して、いつか読んだ“日本 人留学生殺人事件”などと言った新聞の見出しが、私の心中でだんだんと鮮明に浮かび上 がり、必死でバス停を探しました。やっとの思いで見つけ、家の近くのバス停で降り、 木々のざわめきを銃声と錯覚しながら、全速力で家に帰りました。今では星が奇麗な 夜は、海辺沿いの道路をパジャマ姿で酔い覚まし(?)に散歩したりしています。

不思議なものです。一年前に見たビルや道路、近所の家々などは今と全く同じである はずなのに、今私の眼に映る景色は、去年の今頃私の脳裏に焼き付いたものと全く異質の物に感じます。

東京で暮らしていて、私は地方の出身ですので、たまに帰省した時など、幼い頃遊んだ溜め池や小川、又 ホームランを打つのが非常に難しかった近所の神社の中庭などを訪れたりした事があります。 そして、子供の頃、小さな溜め池を湖、小川を大河、そして実はたった30メート ル四方のその神社の中庭を甲子園の様に思った様に、現在の私の目に映る感じとは全く違って見えました。

しかし、長い年月から、また成長した背丈との違いから、それらが異質の物に見えるのは 不思議な事ではありません。しかし、たった一年前です。私の身長はマッタク変わっ ていません。(でも、ちょっと痩せたかもしれません。早く美味しいものが食べたい ・・・・)それに、久しぶりにシアトルを訪れ過去を回想したわけでもありません。 それにもかかわらず、その日バスから眺めた光景は一年前のそれらとは、いや、感動 と共に私の胸に焼き付き、今でも鮮明に蘇ってくるそれらの映像とは全く異質です。

アメリカに来て初めて行ったバーに最近久しぶりに訪れてみました。その詳細(?) はこのエッセーの第一話に掲載させて頂きましたが、私が感じた事はマッタク描写し ていないと思いますので、ここに少し付け加えたいと思います。一言で言えば、表現が幼 くて恐縮ですが、ドキドキでした。カウンターに坐りましたが、周りは、当然です が、皆アメリカ人であり、私だけ“完敗のオセロ”の様に浮いていた様な気がしました。 また、英語で作られた他の人々の会話の渦のBGMは、日本語のそれと比べ違和感が漂 い、四面楚歌の意味を再確認させられたものです。

しかし、最近訪れた時は、その抵抗があったBGMは逆に日常性を思い出させてくれる ようなホッとした雑音に変わっていました。また、他のバーに行っても、たまに日本人のお 客様と出くわすと、逆に懐かしさと共に上野を訪れた石川啄木の様に 耳をそばだてたりします。

私には、何が私の胸中でその相違を作り上げているのか分かりません。ただ一つ言えるのは、この一年 は非常に早かったと思う一方で、逆に上記の様に感じていた去年の今頃を遠い昔の日々に感じたりもするという事です。

インターンシップがまだ終わっていない今、この一年を振り返るのは早すぎますが、その “真っ赤なスケジュール表”を手にした時、この一年を振り返ざるを得ない心境に陥 った事は事実です。その日、バスに揺られ、そしてアメリカに来て初めて乗ったバスから降りたあのダウンタウンの バス停で降り、マキシミリアンまで歩く間はこの様な事をずっと考えていました。

マキシミリアンに着き、洋服を着替え開店準備をしていると、オーナーのアクセルに呼ばれ、オーナー室に 行き、インターンシップの最終日を決めました。来たる4月10日です。つまり、今日から2週間程でイ ンターンシップが、いや、去年の今頃、溢れ出る興奮と時差ボケで眠れなかったあの日に始 まったこのアメリカ留学そのものが終了する事を意味します。

感慨にふけるのはまだ早いようです。ただ、その日バスに揺られた30分間はこれから の2週間を刺激するには充分な時間であったような気がします。そして、既に時間表が頭に 記憶されている今、もう役立たずであるはずなのに、思いもよらず別の威力を発揮してく れたその“真っ赤なバススケジュール表”に最後の頑張りを強く誓いました。

 

第四十六夜 1999年3月17日

< 人工のウィルス >

各文化特有であるはずの事柄ですら、この情報化社会においては決して珍しくもない 為、驚きもせず軽く知ったかぶりをしてしまう傾向がある事は否めない事実です。

特に日本人にその種の勘違いを引き起こす事柄の中で、アメリカでは当然である“会 社の辛辣な決断の早さ”が挙げられるのではと思います。要は“すぐ社員を首にす る”と言う事です。しかし、それを聞いて改めて驚きを感じる人はいないでしょう。 “アメリカではそうらしいね〜”などといって聞き流してしまうのではと思います。

しかし、実際にその現実を目の当たりにすると、何ともいたたまれない悲しさが襲っ てきます。そういった同情心をさらけ出した私を、“甘い”と見なす人も多いでしょ うが、今後もし私が出会った人で、同じような経験をした事がない、又は身近な 人間がそういった惨事に巻き込まれた事がない人に、“社会ってのは厳しいのさ!” などと、机上の論理の延長を豪語されたならば、私は激怒を起こす事でしょう。

私がインターンシップを始めて2週間程経った頃に、新しいウェイターが入社してき ました。名前はサダ。パキスタン人です。彼は4年ほど前にアメリカに渡ってきまし た。もともと英語が堪能であった彼は、すぐ辿り着いたアーカンソーのレストランで 働き始め、そして、今年の一月にシアトルに移り住んで来ました。

人懐っこいヤツで、よく寄って来ては話し掛けてくれました。常に明るく振る舞い皆 に溶け込もうと努力していたのですが、何となくその明るさが空回りしているような 様子がいつも気になっていました。一度休憩時間に二人だけになり、少しの時間でし たがじっくり話をした事があります。

彼は立て続けにアメリカ人特有の“我こそNO1”という態度に対して悪口を並べ立 てました。それを聞き私は、なぜその嫌いなアメリカに住む気になったのだと聞く と、彼は、“来た方がマシな気がした。”と答えました。

4年前に彼のご両親が揃って亡くなられたそうです。理由は聞いていません。そして、 彼には兄弟はいません。つまり彼はその瞬間全くの“独り”になってしまった訳で す。また、彼の親族は祖国のパキスタンには一人もいません。ではどこにいるかと言 うと、ここアメリカにいる訳です。結局叔父にグリーンカードをサポートして貰い、 アメリカに渡ってきたわけです。その悲劇が彼のあの特有の空回りした人懐っこさに 影響しているかどうかは私には判りかねます。

それから何年か経った今、彼に多少ながら夢が湧いてきました。“将来ビジネスを起 こして成功してやる!”アメリカのスモールビジネスのパワーの影響が彼に希望を与 えたのでしょう。彼は、人種差別が水面下で感じられるアーカンソーを離れる決意を し、更なるチャンスを夢見てシアトルに移ってきました。また一人になってしまった わけですが、それから彼の心を満たしている“ひとり”とは決して“孤独”ではなく 将来の自分である“NO1”という希望の一という数字になっていた事でしょう。彼 は生き生きしていました。彼は入社してから無我夢中で働いていた事は申すに及びま せん。過酷なシフトに悲鳴を上げるアメリカ人を横目にサダは黙々と働いていました。

サダが人懐っこい性格である事は前述しました。それはお客様に対しても変わりませ ん。確かに、それを毛嫌いするお客様もいた事でしょう。しかし、それはアクセルの 指導の下でだんだんと解消されてきていました。しかし、その過程であったつい先 日、彼にとってはこれ以上ないくらい、卑劣な客(とてもお客様とは呼べません)が 現れてしまったのです。

その客はサダの担当するテーブルでした。一通り食事を終え、サダのサービスに笑顔 で喜んでいるかの様子でした。しかし、最後のデザートを終える頃、挨拶に来たオー ナーであるアクセルに身を乗り出して真剣な眼差しでクレームを付けていました。

私も動き回っていましたので全ては聞き取れませんでしたが、幾つかの単語は拾えま した。“なぜ、パキスタン人、フレンチレストラン、しかもフレンドリー過ぎ。”ど の様なクレームだったかは想像つくと思います。アクセルは、サダのアーカンソーの レストランでの経験を説明したりしていました。また同時にその横を通った私をいき なり捕まえ、“彼は日本人だが、ここでインターンシップをしている”と必至で説明 を始めました。

サダの人懐っこいサービスはマキシミリアンには、度が過ぎるというのは、フラン ソワも含め各中心スタッフの悩みでもありました。しかし、それは改良されつつあり ました。しかし、サダ本人ではどうする事も出来ない理由が、その影に潜んでいた事は 事実です。結果として、その客のクレームがあった次の日の夜、アクセルとサダが角 のテーブルに二人だけで坐り、深刻な話をしているのを見たのが、私の視界に入った サダの最後の姿になってしまいました。

“レストランは世間とは一線を置いた別世界である。”私は心からそれに同意しま す。また、“お客様のお言葉は有難く尊重すべきものである。”全くその通りです。 しかし、違法でないにしても、世間のモラルを完全に超越した戯言をどこまで別世界 だからと受け入れざるを得ないのかは疑問です。

アクセルのその客への対応やその後の決断を責める気にはなれません。アクセルも商 売が懸っています。レストランは常に受け身の業界である事は事実であり、時には意 に反した事でさえ生き残っていく為には避けられないハードルであると言えるでしょう。

日本のアパートなどで、特に東南アジア人の入居を拒む傾向があると聞いた事があり ます。これは明らかに人種差別の問題に触れている事は誰から見ても確かです。その アパートのオーナーでさえ分かり果てている事柄でしょう。しかし、非難されるべき 当事者はそのオーナーではないと私は思います。ここに書くのは非常に気が引けます が、事実日本人の偏った物の見方で言えば、東南アジア人の住むアパートと聞いて、 入居を少しためらわせてしまう本音が心をよぎるのは正直なところであると言い切れま す。公にはほとんどの日本人はそれを否定するでしょうが、水面下で100パーセン トの同意がとれると私は確信できます。

そのオーナーに罪はありません。アパートもレスト ランと同様受け身であるからです。では、その加害者はと言えば、日本人の心に蔓延 している“狂った人種差別のウィルス”だと言えるのではと思います。アメリカの様 に、その徴候が明るみに出て来ていないだけに、陰性なのか陽性なのか表面的には判らず 一見健康そうに見えますが、実はアメリカ同様、いや体内で暴れまわっているのに 表だって出ていない分タチが悪く病んでいると言えるのではと心が痛みます。事実その 犠牲になってしまっている何の罪もない人々に心から同情します。

サダは完全な犠牲者です。また、アメリカの競争社会の厳しさから、一日ですら次の 職場を探す有余を与えられる間もなく無職になってしまいました。彼がこれからどう するか私には分かりません。

私はサダより一足早く店を出た為、真相が翌日まで分かりませんでしたが、 アクセルと話をした後、フロアを一人でいつもの様に黙々とモップがけをし、またこ れもいつもの様に、帰る間際に笑顔で皆に握手を求め去って行ったそうです。しかし、唯 一のいつものサダとの違いは、別れの挨拶が“See you”ではなかった事です。

“アメリカの会社はすぐ社員をクビにする。”“可哀相だ。”“当然だ、実力社会 だ、可哀相なんて考えてる内はまだまだ甘いな。”たまたま日本人に生まれ、守られ た環境で、給料以下の利益しか会社に貢献していないにもかかわらず偉そうに、今の 私の心情、いやサダの悲痛を見下す人がいたら私は許せません。

アメリカは確かに実力社会です。しかし、傾いた偏見の為に実力が曇らされ、その ウィルスの犠牲になっている人達も少なくない事も事実です。私がこの一年で感じた 事がもし正しければ、アメリカのウィルスは日本に形を変えて、更にタチの悪い姿で 必ず蔓延します。しかも表立った徴候なしに体の中の心だけを蝕んでしまって・・・・・。

“金持ちになったら日本に遊びに行く。”サダはいつもニコニコと私にそう言ってい ました。彼はマキシミリアンを去りましたが、それは彼の幸運全てが彼から去って いった事を意味しません、決して。・・・サダのその約束を私は信じて待ちます。

“金によって破壊されたモラルが正当化される のであれば、それを否定するにも金の力が必要である。”悲しいですが事実のような 気がします。しかし、私は心の底から、サダがその卑劣な“人工のウィルス”をただ拒絶するの ではなく、逆に打ち勝ってくれる事を期待したいと思います。そして、いつかサダ が長年待ち続けている新しい同じ血の通った家族と共に、あの人懐っこい笑顔を日本 で私に見せてくれる事を心から祈ります。

 

第四十五夜 1999年3月8日

< 夜明けに向けて! >

思い返せば去年の今ごろは、ちょうど退社し留学の準備を進めながらこのアメリカ留 学に胸を膨らませていました。その留学も後残り一月足らずで幕を閉じようとしてい ます。

  不思議な感覚です。とは言っても、初めての感覚でもないような気がしますが、過去 に何度か味わってはいるそれらとは比べようもないぐらい今回のこの感覚は重量感の ある物です。

  何か自分が所属している、学校を含めた団体から新しい環境に移る時の感覚に似てい ます。しかし、それとの大きな違いは・・・・何でしょう?

  確かバーテンダーとして働いていた時もたまに経験した事があると思います。ただ、 その時は働いている店が変わるとかそういった事が原因ではありませんでした。突然 です。何ヶ月かに一度、特に休みの日の夜中に、フッと自分自身が恐ろしい程冷静に なり、まるで第三者を見るかのように自分自身の置かれてる状況を分析してしまうの です。その時は決まって、自分を取り囲んでいる物や人又は環境全てが消え、ポ〜ン と自分だけが宙に浮かされ、もう一人の自分によって審判が下されるのです。私に とってはそれが前触れのない何ヶ月かに一度の恐怖の夜でした。

  夢中で働き、仲間と飲みに行き、夢をお互いに語り合っているとなぜか心強くなりお 互い励まし合えます。非常に楽しい時間です。どんなに飲んでも、次の日に仕事が控 えていてもそういうお酒は残らないものです。そして、その期間はまさに熱を放射す る太陽の様に近づくもの全てを自分の光で捻じ伏せてしまう勢いがあります。

  しかし、突如その光が消え失せてしまうのです。仲間の励ましの言葉は嬉しい限りで すが、それが全てを確信させる可能性を示している訳ではありません。夢を語り合う のは素晴らしい事です。それが新たなエネルギーを引き起こしてくれます。ただ、そ れと“傷の舐め合い”の区別は非常に難しいような気もします。

  “太陽だと思っていた自分は、実は仲間によって作られた光を反射するだけの月なの かもしれない。”その月でも夜中に夢心地で輝いている時は意気揚々としているもの です。しかし、たまに、まるで夜明け時の月の様に本物の太陽の光に直面し、本来の 自分の存在感の小ささに気づかされるのです。

  去年までは何ヶ月かに一度でした。天狗の鼻をへし折ったり、小山の大将に喝を入れ るには良い間隔だったかもしれません。しかし、今はその何倍もの強さでその感覚が 私を小刻みに襲っています。

  私は留学前に冷静に考え、目的をはっきりさせてアメリカに冷静に現実的な考えと共 に渡ってきたと思っていましたが、おそらく、現実から夢の世界への憧れも少なから ず持っていたのではと今感じます。“日本が現実”で“アメリカが夢”という比較で はありません。冷静に自分を審判するもう一人の“現実的な自分自身”からの“逃 避”という事です。

  確かに、その逃避はしばらく成功していたと思います。インターンシップが始まり更 に幻覚が加速しました。そして、それから二ヶ月が経ち、終わりが近づき、帰国が迫 る事を現実的に認めた瞬間、久しぶりに又アイツが現れたのです。

  ただ、その大きさが以前と比べ物にならない事はこの心臓の鼓動の激しさの違いが証 明しています。しかし、鼓動が激しくなる時は大きく分けて二種類あります。一つは “不安”に駆られた時。以前はそれが100パーセントだったような気がします。今 はその不思議な感覚の密度が濃い事は事実ですが、もう一つの要素である“期待”か らのドキドキも大きな構成要因ではないかと感じています。その割合は決して“期 待”に比重が多いわけではありませんが、多少なりともワクワク感をヤツが与えてく れた事に多からず驚きを感じています。

  インターンシップは後一ヶ月で終了します。そして、それは私のアメリカ留学の終了 も意味します。また夜が明けようとしています。またアイツが現れる事でしょう。そ の時、今度は私にどういう審判を下すかほんの少し楽しみです。

 

第四十四夜 1999年3月2日

< さよなら、アルマンド!ラテンの友 >

二ヶ月間の留学を終えた、私のラテンの友“アルマンド”が、今日ブラジルへと帰って行 きました。ホストファミリーが忙しかった為、たまたまインターンシップが休みで あった私が空港まで送って行きました。と言ってもバスでですが・・・・。

空港に早目に着き、まだ搭乗まで時間があったので空港内のレストランでランチを食 べる事にしました。彼にはラテンアメリカについていろいろ教えてもらえたので、ま た餞別代わりにご馳走しようと思い、その空港のメインダイニングに行く事に決め、 なかなかファンシーな入り口に期待を込めてそのレストランに入りました。アルマン ドは料理にはかなり興味をもっており、いろいろ詳しいのですが、レストランでの サービスの重要性には全く無頓着で、私はそのレストランのギャルソン達が良い仕事 をしてくれる事をひたすら願いました。

しかし、私の願いとは裏腹にそのレストランに漂っている雰囲気そのものはシアトル の街中やまた日本ではおよそありえない異質の物でした。

我々日本人が、サービスの悪いレストランを想像した時のイメージとは全く異なりま す。それ以前にそこのウエイター達に良いサービスを心掛けようと言った意識が全く 見受けられないのです。しかし、私はそのレストランで、普通のレストランで悪いサー ビスを受けた時の様な不快感を感じる事は出来ませんでした。では、私の胸に届いた ものは何かと言うと、現実の厳しさです。

その空港はダウンタウンからやや離れており、航空会社で働く以外は敢えてそこで働 こうと思わせない様なロケーションと言えます。そのレストランは見かけはなかなか なのですが、所詮空港のレストランですので、特別食通が集まるわけでもなければ、 気に入ったからと言って常連になるような人もいないでしょう。ほぼ100パーセン トの割合でその客層は空港利用者であると言えます。当然、コックとしてのみなら ず、そのレストランでウエイター業を追求しようなどと言う人はおよそいないのでは と思います。それに、ただでさえアメリカはウエイターの社会的地位は低いですので ・・・・。

そのレストランのウエイター達は全て移民でした。アジア系、アフリカ系、ラテン 系、アラブ系と様々ですが、彼らに共通しているのは、職を探すのが難しいと言う事で す。すなわち、食べていかなければならない為に職探しをした結果、そこのレストランに 辿り着いたというのが実状ではと推測できます。

中には英語がほとんど話せない人もいました。また、彼は非常に疲れた表情をしていました が、おそらくそれは体の疲労からだけではないのではと思います。特に貧しい国から の移民に共通している事は、いやおうなくアメリカに来ざるを得なかったと言う事で す。もちろん彼らが望んだからこそアメリカへ渡ってきたのですが、それは選択儀に 同量の魅力があり且つ種類が違うといった平等の選択からではなく、自分の気持ちを殺し ての現実だけを見つめてのどうしようもない選択というより決断であったと言えるでしょう。

サービスはヒドイ物でした。笑顔など全くないぶっきらぼうな対応だけでなく、ミス があってもそれをカバーしようなどといったレストランでは当然の義務的要素すら欠 けていました。しかし、それを責める気にはなれません。そのレストランに入る前 に、アルマンドにサービスの素晴らしさを熱く語りました。アルマンドはやや解りか ねるといった表情でした。 そして、そのレストランを出た時、アルマンドが“これが現実なのだ”と 私に囁きました。経済的に決して良いとは言えないラテンアメリカの状況に精通して いるアルマンドの重い一言でした。

バレンタインディナーの後、私にとって大変驚きの言葉をオーナーのアクセルから頂 きました。就職しないかというお誘いです。他の国の人達がどうしようもない理由で 歯をかみしめてアメリカでの生活を強いられているのにも関らず、何の理由もなくた だアメリカで働きたいと軽々しく流れてくる日本人を私は大変恥ずかしいと思うだけ でなく、嫌気がさしている一方で、もう一人の私が典型的なそれら甘ちゃん日本人と 変わらない様にアメリカでの就職に憧れていた事も事実です。

私はそれを聞いて非常に嬉しく思いました。労働ビザ修得の難しさは相当な物です。 例えオーナーの許可を貰っても日本人の場合ほとんどのケースで移民局はNOと言い ます。しかし、その時の私は胸から込み上げてくる期待でいっぱいでした。

日本人が本家フランスでは習う事が難しいフレンチレストランのサービスの伝統を アメリカで学べる。英語も上達させられる。理由はいくらでも考えられます。しかし、正直に申 し上げれば、それらはアクセルの言葉を聞いてしばらく経った後に浮かんできた理由 であって、私をその場で喜ばせた物とは直接的に関係なかったのではと思います。では何かと言えば、要は “海外で働く日本人の仲間入りが出来る”という“馬鹿げた理由”です。

先日マキシミリアンの皿洗いの一人であるギニア人の“ママドゥ”にロッカーで一緒にな りました。それまで彼とはなかなか話をするチャンスがありませんでした。たった15分でし たが、私にとっては非常に衝撃的な又心痛を引き起こすような時間でした。

だからと言って彼が私に何か咎めるような事を言ってきたわけではありません。むし ろ彼は私に気遣うようにニコニコと話し掛けてきました。“日本は良い国だね〜。” それが彼の一言目でした。私は又例によって、“マウントフジは美しい”とか、“礼儀正し い国だ”とか、その類いの内容かと思っていたのですが、彼がその後付け加えた理由 は、そういった私が今まで会った“日本は良い国だね〜”と話し掛けてきたアメリカ 人の言葉とは全く違う胸を突き破るような事でした。

“日本は仕事が沢山あるじゃないか!”ママドゥはニコニコとそう付け加えました。 アクセルの言葉に浮かれていた私は言葉を失いました。苦笑いする私に、彼はギニアの 状況について少し話してくれました。ギニアは表向きは民主主義らしいですが、現実 はおよそ本来のそれとはかけ離れたものだそうです。大統領が選挙で選ばれるまでは そのポリシーに沿っているのですが、一度選ばれた大統領はおよそ四分の一世紀はそ の座を不動の物にするそうです。それは何を意味するかというと、自分の政治生命に 危機感がない為に、選挙後お国の為に頑張ろうなどとは思わないらしいです。結果と して、政治が腐り、延いては経済にまで影響し、その犠牲になるのが一般市民と言う 事になるわけです。ママドゥはそうとしか言いませんでしたが、彼の表情からはその 言葉に含まれた表現不可能な怒りと悲しみが伝わってきました。

“海外で働く日本人!”・・・それにブランド的意味合いを無意味に添えてしまうの はなぜでしょう?カタカナで書かれたものは見栄えが良いと思い込む習慣が日本には 蔓延っています。ホテルなどで、“INFORMATION”でもなければ“ご案 内”でもなく、“インフォメーション”などと外国人も理解できなければ、日本人に も理解出来ないかもしれない無意味な言葉の使い方を好む人種ではあります。今でこ そこの言葉は一般化されてはいますが、敢えて英語から取り寄せる必要のない言葉で す。もし、日本語にない意味の言葉であれば致し方ないでしょう。しかし、ホテルや 空港であれば“ご案内”、一般的には“情報”と言った立派な日本語があるわけで す。つまり、その無意味な事を一般化させる事を可能にしたのは我々日本人の“リ ディキュラウス センス オブ バリュー”だと言えるでしょう。・・・さぁ〜“イン フォメーション”が如何にヘンな言葉の使い方かお分かりになったと思います。ちな みにフランス料理の本に調理法などがカタカナで書かれているのは賛成です。日本に ない調理法であればそのままカタカナになるのが本来の外来語のなすべき手段でしょ うし、逆に海外の料理本にも“UMAMI”(うまみ)という外国語では訳せない日 本語がそのまま使われています。

ブラジル国内で業界第2位の大企業で若くしてマネジャーになったエリート街道を行 くアルマンドが、その国際的な目で私にアドバイスをくれました。“カズトの話には矛 盾がある”と。つまり、それぞれの国の人々が自国の文化に誇りを持っている事を素 晴らしいと言っているくせに、なぜ日本人である私はもっとその今の現実の日本の文 化や価値観に誇りを持てないのかと言う事です。そして、そのレストランの移民のウ エイター達やママドゥに対する日本人と比べての同情の気持ちは、“冷蔵庫にある食料 を食べずに腐らせる様なものだ”と付け加えました。それほど飢餓に苦しむ人々を憤慨 させるものはないと・・・・。

如何せん私がマキシミリアンで働くというのは、弁護士の費用や移民局の審査にかか る膨大な期間などを考えても現実的ではありませんが、この一部始終でポッと本来の 貪欲な自分を垣間見たような気がします。少し距離をおいての批評や批判は誰にでも簡 単に出来ます。しかし、不意にその距離が消え、気がついたら又は気づかずにその 当事者になった時に、ベールを脱いだ本来の自分が現れるのでしょう。人間の真価はそ こで問われるような気がします。いわゆるキレイゴトとは目に見えないベールを被っ た腹話術の人形の戯言であると今回感じました。今までのエッセーで海外で働きたい 日本人を例に出し、私はヒドクけなしました。しかし、結局私も同類だったのです。

アルマンドの言葉には慰められました。しかし、彼は本当に心優しい人間です。私の 真っ黒なベールとは対照的に、彼の天使の様な真っ白なベールを羽織った腹話術の人形 が、私に慈悲をかけてくれたのでしょう。ただ、アルマンドのお陰で、冷静に 考えてこれからの自分の行くべき道を探せそうな気がします。

アルマンドは、搭乗口で笑顔で大きく手を振って去って行きました。彼とはよく話をし ました。お酒を飲みながらお互いの国の文化を教えあったり、また国境を越えた男同 士の話(?)も大笑いしながら語り合いました。しかし、彼は、どうしても言葉では 教えられない物があると言いました。それはカーニバルの素晴らしさです。こればっ かりは、肌で感じる以外に理解する事は不可能だと言っていました。いつかその答えを探し に必ずアルマンドの住むブラジルを訪れるつもりです。

そして、私も彼に教え損ねた事があります。それはレストランのサービスの素晴らしさです。彼も いつか必ず日本に遊びに来ると旅立つ前に約束しました。その時、私の手で彼にその答えが伝えられ れば、友達としてそれ以上の喜びはありません。・・・・・ありがとう アルマンド、 国境を越え、人生の橋を築いてくれたラテンの友!

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